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オーミー!フォーユー!

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前回は佐竹恒彦選手ゆかりの街、近江八幡市の魅力に触れましたが、そこにそびえ立つ八幡山には城跡があるということで、急遽(きゅうきょ)、戦国城跡探訪に舞い戻り、今回は八幡山城跡をご紹介いたします。
近江八幡市にはこの八幡山。そしてその北にある長命寺山。さらに北には琵琶湖に浮かぶ沖島が続きますが、琵琶湖が誕生するずっと以前はこれらが山脈のように連なっていたのかと想像させるような地形です。

前回ご紹介した近江八幡市の観光名所である八幡堀は、これからご紹介する八幡山城の城堀として、防御のためのものであったと同時に、街の商業交通路としての重要な手段であったわけですが、この八幡山界隈が近江商人のルーツになったということ。それが城主である豊臣秀次の才覚によるものであったということ。華々しい戦国史の裏側に隠された、貴重なエピソードのように思えます。それではその、八幡山城跡である頂上に向かいましょう。

こちらも前回ご紹介した日牟禮八幡宮門前を過ぎて進むと八幡山ロープウェー乗り場。15分間隔の出発で、わずか4分で山頂へと案内してくれます。標高約272メートルの小さな山で、佐和山よりは少し高めですが、ここに1585年、豊臣秀吉の甥(秀吉の姉・ともの子)であり悲運の知将とされる豊臣秀次が近江43万石を拝領し、この八幡山に築城したのでした。近江の地は、かつて秀吉が長浜城を築き、治めた国でもありますが、その要衝を親族である甥に任せたのですね。
ロープウェー山頂駅からは近江八幡市街が一望できます。そして、ここから二の丸跡、本丸跡、北の丸跡、出丸跡と城の主要部分へと続きます。二の丸跡の石垣の脇に造られた“おねがい地蔵尊”。さらに進むと本丸である天守跡へ。築城当時は大手門から頂上のお城まで、安土城のように一本の大手道で結ばれていたといわれます。築城法といい、楽市楽座の街の整備といい信長流を随所に取り入れた豊臣秀次公は、諸説紛々の武将の一人でもありますが、しかし、秀頼の誕生無く、秀吉から受け継いだ二代目関白職を続けていたなら、日本の歴史も幾分変わっていたのかもしれません。

二の丸跡からさらに山を登ると本丸・天守閣跡へたどり着きます。野面積みの石垣は当時のままで、石垣角隅の算木積みを見ると戦国時代後半の築城技術を偲ばせる積み方です。天守跡にたたずむのは村雲御所瑞龍寺門跡(むらくもごしょずいりゅうじもんぜき)です。
1595年に秀吉から切腹を申し渡され、28歳の若さで自害した秀次公の死を悼み、翌年の1596年に生母であり秀吉の姉である、とも(日秀尼公)が息子の菩提を弔うためにと、後陽成天皇から寺号を賜り、京都の村雲に建立されたのが瑞龍寺。この寺の主要な建物が1961年にここ、八幡山に移築されたのでした。

冒頭でもお伝えいたしましたが、長命寺山から続く八幡山からは琵琶湖が、そして近江の国が一望に見渡せます。安土城下にも広がっていた琵琶湖の西の湖もすぐ麓にあり、近江の守りと城下町の繁栄には格好の要衝だったことがうかがえます。
そして、この八幡山から見て北東に広がるのが琵琶湖の西の湖。さらにその東には安土山と安土城がそびえたっていた。やはり戦国史の中心が琵琶湖の湖岸だったことを物語っていますね。
最後に八幡山城からの眺望をご紹介いたします。北の丸址と西の丸址からは対岸の比良山系の山々と湖西が一望できます。出丸址からは湖南の地、大津市街が、そして二の丸址の展望台からは現在の近江八幡市街と東側に西の湖と安土山、さらに佐和山や湖東の小谷山が望めます。
無念の死を遂げた若き知将が夢見た領国経営を偲びながら琵琶湖の絶景を楽しめる八幡山城跡、そして近江八幡の街は戦国史ファンへの格好のお勧めです。

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